
エレベーターでの誓い
ひだまり通信7月号「百花繚乱日記」より転載
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あの日の光景を僕は今でもはっきりとこの目に見ることができる。
一人の年老いた老人が古ぼけた帽子に茶色のジャケットを羽織り、両手にかばんを持って、白いステテコのまま革靴を履いて立ちすくんでいる。そのじいさんは何かを言いたそうに口を半分開き、うつろな瞳でエレベーターの中の僕らを、じーっと見つめていた。
今から約8年前、その人は僕が働く老人保健施設に入所してきた。老いた妻と二人で暮らしていた彼は、妻の入院をきっかけに自宅での一人暮らしを心配する娘に連れられて施設にやってきたのだった。残念ながら妻の容態は思わしくなかった。集まった子どもたちが協議した結果、母(妻)の状態を父へは説明しないこと、そして、年老いた父を一人で田舎の自宅へは帰さないことが決まった。
ところが、その日から彼の言動は日増しにおかしくなっていった。家に帰ると言い出しては職員を困らせた。特に夕暮れの黄昏時には彼の不安は高まり、居ても立ってもいられないとばかりに不穏は増すばかりだった。入所の時に比較的落ち着いていたように見えた彼も、今から思えば、施設に来る前から既に認知症が始まっていたのかもしれない。
それでも、彼の変わりようは日が増すごとにひどくなっていった。部屋を間違えて人のベッドに寝る。食事をめぐっては同じ入所者同士でトラブルを起こす。夜も眠らなくなり、トイレもわからず、失禁まで始まるのに、さほど時間はかからなかった。昼夜を問わず、これから家に帰るとかばんを抱えてエレベーターのボタンを押す。妻に迎えに来るよう伝えてくれ、娘に電話をするから電話を貸してくれ、タクシーを呼んでくれ、彼の訴えは壊れたレコードのように繰り返し繰り返し何度も行われた。そう、まるで「壊れた」という表現に違和感を感じない程に彼はみるみる変わっていくのだった。
まだ小さな子どもを抱えながら自営業を始めたばかりの長男も、嫁ぎ先の両親を同居で面倒見ていた長女も、東京で所帯を持って暮らしている次男にも、父を引き取ることはできなかった。そうでなくとも、未だに家族介護が当たり前と思われている封建的な田舎では、年老いた両親を放ったらかしにして面倒も見ないと、近所や親戚たちからの子どもたちへの風当たりはこれまででも強かった。何度兄弟で集まり話し合っても、そんな田舎の実家に父だけを帰すわけにはいかないことだけが明白であった。
毎日、施設を訪ねて来る娘を見るたびに、彼は満面の笑顔で喜んだ。やっと迎えに来てくれたと勘違いした彼は、これまで見せたことのないような笑顔で娘を迎えるのだった。
「さぁ、帰ろう。もう荷物の準備はできているぞ」
「母さんが待ってるよ、さっさと帰ろう。ここでは頭がおかしくなる」
連れて帰れるはずもない父の喜びようと満面の笑顔は、娘の心をかえって深く傷つけた。いくらゆっくりと分かるように事情を説明しても、それがムダに終わることは既に何度も証明されていた。父を置いたまま帰るには嘘をついて騙すしかなかった。
「駐車場で車をとったら、玄関に回してくるから、ここで待っててね」
そう言いながらエレベーターに乗るしかなかった。
「必ず迎えに戻るから、心配しないでここで待ってて」
そう言いながら、一緒に乗り込もうとする父を拒絶して置き去りにするしかなかった。
僕もエレベーターに同乗していた。
「待ってるよ、早く来てね」
不安そうに僕らを見つめる彼のセリフを残してエレベーターのドアは静かに閉じた。エレベーターが下り始めるのを確認すると、娘はこれまでこらえていたものを吐き出さんばかりに嗚咽しながら泣いた。二人きりのエレベーターの中で、
「お父さん、ごめんなさい」
と小さく何度も謝りながら、両手で顔を覆って隅に向かって泣いた。僕がいるのも構わずにおんおんと泣くのだった。その横で僕は、ソーシャルワーカー(相談員)という肩書きを名乗るだけで何もできない役立たずな自分の非力さに、しゃがみ込んでしまいそうなほど打ちのめされたのだった。
「誰でも、いくつになっても、車椅子でも認知症でも、家族が誰もいなくても、その人が望むのであれば、最後まで自宅で暮らしていくことができる」
そんな仕組みを、街を、社会を、そして、時代を作ろうと、その日、玄関まで娘を見送った後、一人になったエレベーターの中で僕は心に誓った。

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「エレベーターでの誓い」
あの日の光景を僕は今でもはっきりとこの目に見ることができる。
一人の年老いた老人が古ぼけた帽子に茶色のジャケットを羽織り、両手にかばんを持って、白いステテコのまま革靴を履いて立ちすくんでいる。そのじいさんは何かを言いたそうに口を半分開き、うつろな瞳でエレベーターの中の僕らを、じーっと見つめていた。
今から約8年前、その人は僕が働く老人保健施設に入所してきた。老いた妻と二人で暮らしていた彼は、妻の入院をきっかけに自宅での一人暮らしを心配する娘に連れられて施設にやってきたのだった。残念ながら妻の容態は思わしくなかった。集まった子どもたちが協議した結果、母(妻)の状態を父へは説明しないこと、そして、年老いた父を一人で田舎の自宅へは帰さないことが決まった。
ところが、その日から彼の言動は日増しにおかしくなっていった。家に帰ると言い出しては職員を困らせた。特に夕暮れの黄昏時には彼の不安は高まり、居ても立ってもいられないとばかりに不穏は増すばかりだった。入所の時に比較的落ち着いていたように見えた彼も、今から思えば、施設に来る前から既に認知症が始まっていたのかもしれない。
それでも、彼の変わりようは日が増すごとにひどくなっていった。部屋を間違えて人のベッドに寝る。食事をめぐっては同じ入所者同士でトラブルを起こす。夜も眠らなくなり、トイレもわからず、失禁まで始まるのに、さほど時間はかからなかった。昼夜を問わず、これから家に帰るとかばんを抱えてエレベーターのボタンを押す。妻に迎えに来るよう伝えてくれ、娘に電話をするから電話を貸してくれ、タクシーを呼んでくれ、彼の訴えは壊れたレコードのように繰り返し繰り返し何度も行われた。そう、まるで「壊れた」という表現に違和感を感じない程に彼はみるみる変わっていくのだった。
まだ小さな子どもを抱えながら自営業を始めたばかりの長男も、嫁ぎ先の両親を同居で面倒見ていた長女も、東京で所帯を持って暮らしている次男にも、父を引き取ることはできなかった。そうでなくとも、未だに家族介護が当たり前と思われている封建的な田舎では、年老いた両親を放ったらかしにして面倒も見ないと、近所や親戚たちからの子どもたちへの風当たりはこれまででも強かった。何度兄弟で集まり話し合っても、そんな田舎の実家に父だけを帰すわけにはいかないことだけが明白であった。
毎日、施設を訪ねて来る娘を見るたびに、彼は満面の笑顔で喜んだ。やっと迎えに来てくれたと勘違いした彼は、これまで見せたことのないような笑顔で娘を迎えるのだった。
「さぁ、帰ろう。もう荷物の準備はできているぞ」
「母さんが待ってるよ、さっさと帰ろう。ここでは頭がおかしくなる」
連れて帰れるはずもない父の喜びようと満面の笑顔は、娘の心をかえって深く傷つけた。いくらゆっくりと分かるように事情を説明しても、それがムダに終わることは既に何度も証明されていた。父を置いたまま帰るには嘘をついて騙すしかなかった。
「駐車場で車をとったら、玄関に回してくるから、ここで待っててね」
そう言いながらエレベーターに乗るしかなかった。
「必ず迎えに戻るから、心配しないでここで待ってて」
そう言いながら、一緒に乗り込もうとする父を拒絶して置き去りにするしかなかった。
僕もエレベーターに同乗していた。
「待ってるよ、早く来てね」
不安そうに僕らを見つめる彼のセリフを残してエレベーターのドアは静かに閉じた。エレベーターが下り始めるのを確認すると、娘はこれまでこらえていたものを吐き出さんばかりに嗚咽しながら泣いた。二人きりのエレベーターの中で、
「お父さん、ごめんなさい」
と小さく何度も謝りながら、両手で顔を覆って隅に向かって泣いた。僕がいるのも構わずにおんおんと泣くのだった。その横で僕は、ソーシャルワーカー(相談員)という肩書きを名乗るだけで何もできない役立たずな自分の非力さに、しゃがみ込んでしまいそうなほど打ちのめされたのだった。
「誰でも、いくつになっても、車椅子でも認知症でも、家族が誰もいなくても、その人が望むのであれば、最後まで自宅で暮らしていくことができる」
そんな仕組みを、街を、社会を、そして、時代を作ろうと、その日、玄関まで娘を見送った後、一人になったエレベーターの中で僕は心に誓った。
Posted by
松本哲治
at
2007年06月18日
10:06
Comments( 6 )
Comments( 6 )
この記事へのコメント
心に響く内容でした。
15年程前、私の曾祖母が認知症になりました。
90歳という高齢でしたので、無理もないのかも知れません。
大きな原因は、引越しです。
長年住んでた場所を引っ越して、新築の家へ。
家族6人、父、母、子供3人、とおばあちゃん。
近くに親戚も多い地域に引っ越したので、逆に安心してたのですが。。。
「家に帰ろうねー」
そこから始まりました。
「ここが家だよー。」と何度言ってもわかりません。
私の母が家で介護してたのですが、精神的にも大変そうでした。
認知症が始まってから、逝ってしまうまでの数年間。
私は途中で家を出たので、なかなか力になって上げられなかった。
自分の両親も年金をもらう年齢になってきたので、人事ではありません。
松本さんの誓いが達成される日が来るように、影ながら応援しています。
15年程前、私の曾祖母が認知症になりました。
90歳という高齢でしたので、無理もないのかも知れません。
大きな原因は、引越しです。
長年住んでた場所を引っ越して、新築の家へ。
家族6人、父、母、子供3人、とおばあちゃん。
近くに親戚も多い地域に引っ越したので、逆に安心してたのですが。。。
「家に帰ろうねー」
そこから始まりました。
「ここが家だよー。」と何度言ってもわかりません。
私の母が家で介護してたのですが、精神的にも大変そうでした。
認知症が始まってから、逝ってしまうまでの数年間。
私は途中で家を出たので、なかなか力になって上げられなかった。
自分の両親も年金をもらう年齢になってきたので、人事ではありません。
松本さんの誓いが達成される日が来るように、影ながら応援しています。
Posted by 安座間 at 2007年06月18日 10:47
10日前、母が亡くなってから実家で独居していた父が、いわゆる老人ホームに入所しました。
昨夜、姉から電話があり、幸いなことに、本人は前向きに新生活を始めたとのこと。胸の痛みがほんの少しだけやわらぎました。
それにしても、家族がばらばらになって、お金を稼いだり、大学を出たり、マンションを買ったりしているわれわれの暮らしは一体何なのでしょう。物がふんだんにあり、医療保険や社会保険も完備している現在の社会と、病を得たら衰え死ぬしかなかったが、最後まで自分の家で暮らし、家族に看取られて死ぬことのできた昔とでは、どちらが幸せなのでしょう。
子供がいない我が身の老後・死に様も含め、考えさせられることの多い昨今です。
昨夜、姉から電話があり、幸いなことに、本人は前向きに新生活を始めたとのこと。胸の痛みがほんの少しだけやわらぎました。
それにしても、家族がばらばらになって、お金を稼いだり、大学を出たり、マンションを買ったりしているわれわれの暮らしは一体何なのでしょう。物がふんだんにあり、医療保険や社会保険も完備している現在の社会と、病を得たら衰え死ぬしかなかったが、最後まで自分の家で暮らし、家族に看取られて死ぬことのできた昔とでは、どちらが幸せなのでしょう。
子供がいない我が身の老後・死に様も含め、考えさせられることの多い昨今です。
Posted by 青木孝之 at 2007年06月18日 12:38
私の場合もその家族の事は他人事ではありません。
宮城県から沖縄へ引っ越してからは、父親も引きこもり気味だし、
今月中に手術も控えています。
そんな中で、沖縄には誰一人兄弟や親戚もない私は一体どうしたらいいか
わからなくなります。
だけど、『助けて』と言えるように、沢山の知り合いを作り自分ひとりでは
抱え込まないようにしないといけないと思っています。
お松さんや、さくらの郷の仲間さんなどいい繋がりが持てる私は、
幸せなのかもしれません。
宮城県から沖縄へ引っ越してからは、父親も引きこもり気味だし、
今月中に手術も控えています。
そんな中で、沖縄には誰一人兄弟や親戚もない私は一体どうしたらいいか
わからなくなります。
だけど、『助けて』と言えるように、沢山の知り合いを作り自分ひとりでは
抱え込まないようにしないといけないと思っています。
お松さんや、さくらの郷の仲間さんなどいい繋がりが持てる私は、
幸せなのかもしれません。
Posted by いっく at 2007年06月18日 16:05
はじめまして。
書家のとしといいます。
ブログを読んでいて、とても胸が苦しくなりました。
わたしの両親はもうおじぃおばぁなのですが、
元気にはるさぁ~をしています。
それが、どれだけ幸せなことか再確認できました。
今日は両親に生んでくれてありがとうと言いたいです。
ありがとうございました。
書家のとしといいます。
ブログを読んでいて、とても胸が苦しくなりました。
わたしの両親はもうおじぃおばぁなのですが、
元気にはるさぁ~をしています。
それが、どれだけ幸せなことか再確認できました。
今日は両親に生んでくれてありがとうと言いたいです。
ありがとうございました。
Posted by とし at 2007年06月19日 10:43
ボケたら何も分からない 本人は幸せだ・・・・
認知症の人と家族の会では数年前、認知症の偏見、誤解に対し、「ボケても心は生きている」 を提唱してました。
認知症による記憶障害、知能、認知機能低下による徘徊、介護の抵抗等を、 「 問題行動 」と見られ、本人の気持ちより、介護する側の勝手な解釈、満足で、ますます認知症の方の思いから、かけ離れた対応で、ますます不安、混乱に陥り、本人も周りも、どうしてよいか分からなくなり、疲労、絶望感から虐待に走るケースも・・・・・
認知症でも家族を思う気持ち、馬鹿にされた気持ち、こんな自分になった情けない気持ちは私たちと変わらない・・・・・・
認知症で全てを失った訳ではない
感情はある、出来る事もある、憶えていることもある
この病に対する正しい知識と適切なケアを知り、社会の偏見、誤解を無くし、認知症になっても、その人らしく暮らせるようにする大切さを感じました。
認知症の人と家族の会では数年前、認知症の偏見、誤解に対し、「ボケても心は生きている」 を提唱してました。
認知症による記憶障害、知能、認知機能低下による徘徊、介護の抵抗等を、 「 問題行動 」と見られ、本人の気持ちより、介護する側の勝手な解釈、満足で、ますます認知症の方の思いから、かけ離れた対応で、ますます不安、混乱に陥り、本人も周りも、どうしてよいか分からなくなり、疲労、絶望感から虐待に走るケースも・・・・・
認知症でも家族を思う気持ち、馬鹿にされた気持ち、こんな自分になった情けない気持ちは私たちと変わらない・・・・・・
認知症で全てを失った訳ではない
感情はある、出来る事もある、憶えていることもある
この病に対する正しい知識と適切なケアを知り、社会の偏見、誤解を無くし、認知症になっても、その人らしく暮らせるようにする大切さを感じました。
Posted by まんたろう at 2007年06月20日 09:38
安座間様、
コメントありがとうございます。ご無沙汰していますね。いつものぞいてくださっているようでありがたいです。
引越しそのものが認知症の原因ではありませんが、
悪化を加速させる引き金にはよくなります。
僕らも介護が人事ではない歳になりました。心構えだけはしておきましょう。
今度またお昼でも行きましょう。
青木様、
そうですね、社会保障制度と文化との関係は微妙で繊細な面がありますね。
僕もいつも考えさせられます。現実もわかるし、理想は降ろしたくないし・・・。
いっく様、
そうですね、遠距離介護になるかも知れませんね。一つのポイントは、信頼できるケアマネジャーをしっかりと見つけておくことです。良い介護のコツは、「先手」です。
とし様、
初カキコありがとうございます。
僕にも元気な両親がいます。元気すぎてなかなか素直に
感謝を表わせません。今のうちにしっかり伝えておこうとは思うのですが・・・。
まんたろう様、
プロ同士、恥ずかしくないケアを提供していきましょう。
ところで、誰だろうなぁ?
コメントありがとうございます。ご無沙汰していますね。いつものぞいてくださっているようでありがたいです。
引越しそのものが認知症の原因ではありませんが、
悪化を加速させる引き金にはよくなります。
僕らも介護が人事ではない歳になりました。心構えだけはしておきましょう。
今度またお昼でも行きましょう。
青木様、
そうですね、社会保障制度と文化との関係は微妙で繊細な面がありますね。
僕もいつも考えさせられます。現実もわかるし、理想は降ろしたくないし・・・。
いっく様、
そうですね、遠距離介護になるかも知れませんね。一つのポイントは、信頼できるケアマネジャーをしっかりと見つけておくことです。良い介護のコツは、「先手」です。
とし様、
初カキコありがとうございます。
僕にも元気な両親がいます。元気すぎてなかなか素直に
感謝を表わせません。今のうちにしっかり伝えておこうとは思うのですが・・・。
まんたろう様、
プロ同士、恥ずかしくないケアを提供していきましょう。
ところで、誰だろうなぁ?
Posted by お松 at 2007年06月20日 11:19
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