› 53歳責任世代が浦添市の新しい明日を創る! 松本哲治「百花繚乱日記」ブログ › 2007年06月
お花植え
梅雨も明けて、ぬけるような青空が続いています。
そこで、先日の木曜日、会社のみんなで事務所前にお花を植えました。
ライフサポートの事務所前の植栽帯は浦添市の美ら街推進課から委託を受けて管理をしています。
そう、僕らは浦添市の美ままちサポーター制度の第一号なのだ。
それで、年に3回ほど役所からお花を頂いている。もちろん、植え替えや日々の管理は僕らの責任です。
次の植え替えはたぶん秋頃かな?とにかく、今、事務所前がきれいです。
車でも散歩でも、道行く人はお花をお楽しみくださいな
毎朝8:00からの掃除も気合が入ります応援よろしく
そこで、先日の木曜日、会社のみんなで事務所前にお花を植えました。
ライフサポートの事務所前の植栽帯は浦添市の美ら街推進課から委託を受けて管理をしています。
そう、僕らは浦添市の美ままちサポーター制度の第一号なのだ。
それで、年に3回ほど役所からお花を頂いている。もちろん、植え替えや日々の管理は僕らの責任です。
次の植え替えはたぶん秋頃かな?とにかく、今、事務所前がきれいです。
車でも散歩でも、道行く人はお花をお楽しみくださいな
毎朝8:00からの掃除も気合が入ります応援よろしく
ココロ基金報告
みなさま、お待たせいたしました。
ココロ基金の現状報告です。
なんと、250万円の大台に乗っております
お振込みをなされた方は、ご自分のお名前をご確認ください。でも、見ずらいな、この写真。
ひだまり通信の広告掲載代金、正・賛助会員の会費、自動販売機の売上、みなさまからの寄付などは、事務所の経費などに流用できないよう、すべてココロ基金へ積み立てられます。
現在、2,536,925円
目標の10億円まで、あと997,463,075円。
頑張ろう
ココロ基金の現状報告です。
なんと、250万円の大台に乗っております
お振込みをなされた方は、ご自分のお名前をご確認ください。でも、見ずらいな、この写真。
ひだまり通信の広告掲載代金、正・賛助会員の会費、自動販売機の売上、みなさまからの寄付などは、事務所の経費などに流用できないよう、すべてココロ基金へ積み立てられます。
現在、2,536,925円
目標の10億円まで、あと997,463,075円。
頑張ろう
慰霊の日
6月23日は沖縄県慰霊の日であった。
僕は、糸満市にある平和記念公園(平和の礎など)ではなく、地元の慰霊祭に毎年出席している。
理由はやっぱり僕のじいちゃんやばあちゃん、おじさん、おばさんは、
こっちに眠っているような気がするからである。
僕の親戚(父方)は、親父と叔母(すでに他界)とを除いて全員(一人は戦前に病死)自決で亡くなっている。
今の自宅からあまり遠くない場所で、一個の手榴弾を囲んで自決したらしい。
この島には、太平洋戦争で唯一の地上戦が行われ、多くの民間人が犠牲になった。
そのため、彼らを祭る慰霊碑は、島中いたるところにある。
上の写真は、浦添市宮城(なーぐしく)の慰霊碑。いつもはひっそりとしているが、今日はお花でいっぱい。
この島は、慰霊の日必ず、青空で暑くなる。
半世紀も昔のあの日もこんな日だったのだろうか。
黙祷を捧げるあの時間だけ、この島はあの日に戻る。
じりじりと焦がす太陽。
じーじーと鳴く蝉の声。
葉を揺らす生ぬるい風。
静まり返った時間。
そして、お線香の匂い。
僕らにとって、
瞳を閉じた黙祷の一分間は、
時空を超えた永遠の時間なのだ。
僕は、糸満市にある平和記念公園(平和の礎など)ではなく、地元の慰霊祭に毎年出席している。
理由はやっぱり僕のじいちゃんやばあちゃん、おじさん、おばさんは、
こっちに眠っているような気がするからである。
僕の親戚(父方)は、親父と叔母(すでに他界)とを除いて全員(一人は戦前に病死)自決で亡くなっている。
今の自宅からあまり遠くない場所で、一個の手榴弾を囲んで自決したらしい。
この島には、太平洋戦争で唯一の地上戦が行われ、多くの民間人が犠牲になった。
そのため、彼らを祭る慰霊碑は、島中いたるところにある。
上の写真は、浦添市宮城(なーぐしく)の慰霊碑。いつもはひっそりとしているが、今日はお花でいっぱい。
この島は、慰霊の日必ず、青空で暑くなる。
半世紀も昔のあの日もこんな日だったのだろうか。
黙祷を捧げるあの時間だけ、この島はあの日に戻る。
じりじりと焦がす太陽。
じーじーと鳴く蝉の声。
葉を揺らす生ぬるい風。
静まり返った時間。
そして、お線香の匂い。
僕らにとって、
瞳を閉じた黙祷の一分間は、
時空を超えた永遠の時間なのだ。
社長・社員共育塾第1講
僕らライフサポートてだこは、沖縄県中小企業家同友会という会に所属している。
その同友会が主催している「共育塾」という社長と社員が一緒に勉強する講座がある。
その第1講が昨夜あったので、社員5名と共に参加してきた。
講師は、タラサ志摩スパ&リゾート社長の今野華都子さん。
今野さんはなんとエステシャン世界一で、
五日市さんとの著書でも有名
「技術とは愛情。目の前の人に最善の結果が出るようにと考え、工夫し、尽くしていくことが技術を磨く」
介護とエステ。本当に共通点が多くて学ばされました。
彼女が語る全てが、僕らの仕事に共通する内容で、是非多くの福祉・介護・医療関係者にも聞いていただきたいと思った。
内容にも話し方にもお人柄が出ていて、じ~んと来るお話で会場いっぱいの受講生たちにも涙した人が多くいました。
その後は、みんなで遅い晩御飯。
これから月1で共育塾の後にコミュニケーションタイムを設けて行きます。
その同友会が主催している「共育塾」という社長と社員が一緒に勉強する講座がある。
その第1講が昨夜あったので、社員5名と共に参加してきた。
講師は、タラサ志摩スパ&リゾート社長の今野華都子さん。
今野さんはなんとエステシャン世界一で、
五日市さんとの著書でも有名
「技術とは愛情。目の前の人に最善の結果が出るようにと考え、工夫し、尽くしていくことが技術を磨く」
介護とエステ。本当に共通点が多くて学ばされました。
彼女が語る全てが、僕らの仕事に共通する内容で、是非多くの福祉・介護・医療関係者にも聞いていただきたいと思った。
内容にも話し方にもお人柄が出ていて、じ~んと来るお話で会場いっぱいの受講生たちにも涙した人が多くいました。
その後は、みんなで遅い晩御飯。
これから月1で共育塾の後にコミュニケーションタイムを設けて行きます。
エレベーターでの誓い
ひだまり通信7月号「百花繚乱日記」より転載
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あの日の光景を僕は今でもはっきりとこの目に見ることができる。
一人の年老いた老人が古ぼけた帽子に茶色のジャケットを羽織り、両手にかばんを持って、白いステテコのまま革靴を履いて立ちすくんでいる。そのじいさんは何かを言いたそうに口を半分開き、うつろな瞳でエレベーターの中の僕らを、じーっと見つめていた。
今から約8年前、その人は僕が働く老人保健施設に入所してきた。老いた妻と二人で暮らしていた彼は、妻の入院をきっかけに自宅での一人暮らしを心配する娘に連れられて施設にやってきたのだった。残念ながら妻の容態は思わしくなかった。集まった子どもたちが協議した結果、母(妻)の状態を父へは説明しないこと、そして、年老いた父を一人で田舎の自宅へは帰さないことが決まった。
ところが、その日から彼の言動は日増しにおかしくなっていった。家に帰ると言い出しては職員を困らせた。特に夕暮れの黄昏時には彼の不安は高まり、居ても立ってもいられないとばかりに不穏は増すばかりだった。入所の時に比較的落ち着いていたように見えた彼も、今から思えば、施設に来る前から既に認知症が始まっていたのかもしれない。
それでも、彼の変わりようは日が増すごとにひどくなっていった。部屋を間違えて人のベッドに寝る。食事をめぐっては同じ入所者同士でトラブルを起こす。夜も眠らなくなり、トイレもわからず、失禁まで始まるのに、さほど時間はかからなかった。昼夜を問わず、これから家に帰るとかばんを抱えてエレベーターのボタンを押す。妻に迎えに来るよう伝えてくれ、娘に電話をするから電話を貸してくれ、タクシーを呼んでくれ、彼の訴えは壊れたレコードのように繰り返し繰り返し何度も行われた。そう、まるで「壊れた」という表現に違和感を感じない程に彼はみるみる変わっていくのだった。
まだ小さな子どもを抱えながら自営業を始めたばかりの長男も、嫁ぎ先の両親を同居で面倒見ていた長女も、東京で所帯を持って暮らしている次男にも、父を引き取ることはできなかった。そうでなくとも、未だに家族介護が当たり前と思われている封建的な田舎では、年老いた両親を放ったらかしにして面倒も見ないと、近所や親戚たちからの子どもたちへの風当たりはこれまででも強かった。何度兄弟で集まり話し合っても、そんな田舎の実家に父だけを帰すわけにはいかないことだけが明白であった。
毎日、施設を訪ねて来る娘を見るたびに、彼は満面の笑顔で喜んだ。やっと迎えに来てくれたと勘違いした彼は、これまで見せたことのないような笑顔で娘を迎えるのだった。
「さぁ、帰ろう。もう荷物の準備はできているぞ」
「母さんが待ってるよ、さっさと帰ろう。ここでは頭がおかしくなる」
連れて帰れるはずもない父の喜びようと満面の笑顔は、娘の心をかえって深く傷つけた。いくらゆっくりと分かるように事情を説明しても、それがムダに終わることは既に何度も証明されていた。父を置いたまま帰るには嘘をついて騙すしかなかった。
「駐車場で車をとったら、玄関に回してくるから、ここで待っててね」
そう言いながらエレベーターに乗るしかなかった。
「必ず迎えに戻るから、心配しないでここで待ってて」
そう言いながら、一緒に乗り込もうとする父を拒絶して置き去りにするしかなかった。
僕もエレベーターに同乗していた。
「待ってるよ、早く来てね」
不安そうに僕らを見つめる彼のセリフを残してエレベーターのドアは静かに閉じた。エレベーターが下り始めるのを確認すると、娘はこれまでこらえていたものを吐き出さんばかりに嗚咽しながら泣いた。二人きりのエレベーターの中で、
「お父さん、ごめんなさい」
と小さく何度も謝りながら、両手で顔を覆って隅に向かって泣いた。僕がいるのも構わずにおんおんと泣くのだった。その横で僕は、ソーシャルワーカー(相談員)という肩書きを名乗るだけで何もできない役立たずな自分の非力さに、しゃがみ込んでしまいそうなほど打ちのめされたのだった。
「誰でも、いくつになっても、車椅子でも認知症でも、家族が誰もいなくても、その人が望むのであれば、最後まで自宅で暮らしていくことができる」
そんな仕組みを、街を、社会を、そして、時代を作ろうと、その日、玄関まで娘を見送った後、一人になったエレベーターの中で僕は心に誓った。
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「エレベーターでの誓い」
あの日の光景を僕は今でもはっきりとこの目に見ることができる。
一人の年老いた老人が古ぼけた帽子に茶色のジャケットを羽織り、両手にかばんを持って、白いステテコのまま革靴を履いて立ちすくんでいる。そのじいさんは何かを言いたそうに口を半分開き、うつろな瞳でエレベーターの中の僕らを、じーっと見つめていた。
今から約8年前、その人は僕が働く老人保健施設に入所してきた。老いた妻と二人で暮らしていた彼は、妻の入院をきっかけに自宅での一人暮らしを心配する娘に連れられて施設にやってきたのだった。残念ながら妻の容態は思わしくなかった。集まった子どもたちが協議した結果、母(妻)の状態を父へは説明しないこと、そして、年老いた父を一人で田舎の自宅へは帰さないことが決まった。
ところが、その日から彼の言動は日増しにおかしくなっていった。家に帰ると言い出しては職員を困らせた。特に夕暮れの黄昏時には彼の不安は高まり、居ても立ってもいられないとばかりに不穏は増すばかりだった。入所の時に比較的落ち着いていたように見えた彼も、今から思えば、施設に来る前から既に認知症が始まっていたのかもしれない。
それでも、彼の変わりようは日が増すごとにひどくなっていった。部屋を間違えて人のベッドに寝る。食事をめぐっては同じ入所者同士でトラブルを起こす。夜も眠らなくなり、トイレもわからず、失禁まで始まるのに、さほど時間はかからなかった。昼夜を問わず、これから家に帰るとかばんを抱えてエレベーターのボタンを押す。妻に迎えに来るよう伝えてくれ、娘に電話をするから電話を貸してくれ、タクシーを呼んでくれ、彼の訴えは壊れたレコードのように繰り返し繰り返し何度も行われた。そう、まるで「壊れた」という表現に違和感を感じない程に彼はみるみる変わっていくのだった。
まだ小さな子どもを抱えながら自営業を始めたばかりの長男も、嫁ぎ先の両親を同居で面倒見ていた長女も、東京で所帯を持って暮らしている次男にも、父を引き取ることはできなかった。そうでなくとも、未だに家族介護が当たり前と思われている封建的な田舎では、年老いた両親を放ったらかしにして面倒も見ないと、近所や親戚たちからの子どもたちへの風当たりはこれまででも強かった。何度兄弟で集まり話し合っても、そんな田舎の実家に父だけを帰すわけにはいかないことだけが明白であった。
毎日、施設を訪ねて来る娘を見るたびに、彼は満面の笑顔で喜んだ。やっと迎えに来てくれたと勘違いした彼は、これまで見せたことのないような笑顔で娘を迎えるのだった。
「さぁ、帰ろう。もう荷物の準備はできているぞ」
「母さんが待ってるよ、さっさと帰ろう。ここでは頭がおかしくなる」
連れて帰れるはずもない父の喜びようと満面の笑顔は、娘の心をかえって深く傷つけた。いくらゆっくりと分かるように事情を説明しても、それがムダに終わることは既に何度も証明されていた。父を置いたまま帰るには嘘をついて騙すしかなかった。
「駐車場で車をとったら、玄関に回してくるから、ここで待っててね」
そう言いながらエレベーターに乗るしかなかった。
「必ず迎えに戻るから、心配しないでここで待ってて」
そう言いながら、一緒に乗り込もうとする父を拒絶して置き去りにするしかなかった。
僕もエレベーターに同乗していた。
「待ってるよ、早く来てね」
不安そうに僕らを見つめる彼のセリフを残してエレベーターのドアは静かに閉じた。エレベーターが下り始めるのを確認すると、娘はこれまでこらえていたものを吐き出さんばかりに嗚咽しながら泣いた。二人きりのエレベーターの中で、
「お父さん、ごめんなさい」
と小さく何度も謝りながら、両手で顔を覆って隅に向かって泣いた。僕がいるのも構わずにおんおんと泣くのだった。その横で僕は、ソーシャルワーカー(相談員)という肩書きを名乗るだけで何もできない役立たずな自分の非力さに、しゃがみ込んでしまいそうなほど打ちのめされたのだった。
「誰でも、いくつになっても、車椅子でも認知症でも、家族が誰もいなくても、その人が望むのであれば、最後まで自宅で暮らしていくことができる」
そんな仕組みを、街を、社会を、そして、時代を作ろうと、その日、玄関まで娘を見送った後、一人になったエレベーターの中で僕は心に誓った。
上司の喜び
沖縄県福祉保健部より平成19年度認知症介護実践研修の受講者募集の案内が届いた。
認知症介護についての専門的な研修であり、今後、認知症に関わる仕事をしていく上で必要になる資格である。
それで応募の条件などをあれこれ考えた末に、職員Zさんに受講してみないかと勧めた。
本人の承諾をもらえたので、申込書を書くよう言った。
その申込書類には名前、住所、職歴などに加えて、「受講の動機」という欄があり、本人が考えて埋めることになる。
そのZさんは、年齢は若いがヘルパーステーションりんでずっと通してきた頑張り屋である。
いろいろ辛そうな時期もあったが、僕は何もしてあげられなかった。
いや、いろんな声をかけたり、アドバイスしたりということはできても、
最後はやはり、自分自身で悩み、考え、自ら結論を出して進まなければならない。
そんな日々を3年過ごしてきた彼女が出してきた「受講の動機」を読んで、僕は胸が熱くなった。
いつもアホみたいに騒いでいた彼女がこんなことを考えながら、今日まで歩いてきたのかと思うと、
嬉しくもあり、誇りでもあり、Zさんの成長は上司として、これ以上ない喜びである。
外部に出すのもどうかと思ったが、是非多くの人にも読んで欲しいと思ったので、UPすることにした。
少し長くなるが、彼女の努力に敬意を示して、手を付けずにそのままUPする。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
人には、見てわかるものと見た目ではわからないことがある。その見えないものを、どうケアするかが、これからの介護に求められるのだと感じている。 私は訪問介護員として3年目を迎えているが、訪問だからなのか、毎日、昨日にはない事が起こり、そんな日々を私なりに楽しみ有意義に過ごしている。
今回、認知症の研修があることを伝えられ、一瞬にして私の頭の中に、これまで関わった方の顔が浮かんできた。あの方は私と過ごしてくれたあの日々を幸せだと感じることができただろうか?認知症という病と向き合えた時間は貴重で私の人生にとって大きな影響を与えてくれたと感じている。
初めて関わった方は一人暮らしで認知症と末期ガンであり、終末ケアまで関わった方である。家族以外の人を拒むので、私達介護員は、彼女の屋号を名乗り、親戚であることを認めてもらわないと家に入ることができなかった。彼女にとって他人になってしまうと大声で怒鳴られ食事もお薬も飲んでいただけなかった。徘徊も何度もあり、探し回って自宅から5キロも離れた所で保護されたこともあった。
そんな彼女は転倒がきっかけで、どんどん体力が低下し、ついに寝たきりになってしまった。酸素を装着しだした頃、昼に訪問すると、左手が汚れているのに気が付いた。だが、まずは排泄介助から行い清拭しようと準備していると臭いに気づき、もしやと思い恐る恐るよく左手を見ると、なんと、自分が排泄したものを持っているのだ。私は嫌がる本人に怒鳴られながらも半泣きで歯を食いしばりながら洗った。お腹が空いたと訴える彼女に、「きれいにしてから食事しましょうね」と爪の間をつま楊枝で取り除いたあの時が今でも忘れられない。
しかし、私が混乱していただけで彼女は何もなかったようにその後の昼食を「あいえな~で~じま~さん」と笑顔で過ごしていた。逆に私が失敗しているような気持ちになり、食事が遅くなりすみませんでしたと謝りながら介助した。なぜなのだろうとずっと考えてみた。彼女は排泄したのに気づき、不快感もあるので自分でどうにかしようと考えた結果の行為だったのだろうか。手に付いたのを見て何を感じていたのだろう。ショックはなかっただろうか・・・。
認知症(という病名に変わった)は、我々介護する側のためかもしれない。
認知症の彼らが、これから訪れる課題に一緒に乗り越えられるように援助する側の努力が必要なのだと思う。彼らが最も自分らしくいれる環境が創れるように、意外にも、本人より彼らを取り巻く人がこの病に向き合える強さが必要なのではないだろうか。
彼女はその後痛みもまし苦しむこともあったが、早朝誰かに見守られるいことなく眠るように亡くなられた。彼女の人生にとってみれば認知症であった期間は短い間で、一緒に過ごせた、笑いあったあの日々に幸せであったと感じてくれていただろうか。
認知症は、目では確認できない彼らの中にある見えない病である。だが決して私たちが関わることが治療でもなく、和らげることもできない。しかし、そこには彼らだからこそ感じ取れるものや生き様があり、老いていくだけでなく自身の歴史を振り返れることができる手段を得ているのかもしれない。
まだまだ私は、一生のうちの4分の1程度しか生きているだけでこれから長い一生が待っている。だからまだ立派な大人といえる自信もない。しかし、この介護職は意外にも私を私らしくさせてくれる気持ちの良い職業だ。この受講を通してこれからの私の人生にも、仕事にも待ち受ける多くの課題を乗り越えられる力を身につけたいと強く望んでいる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
頑張れ、Z
ありがとう、Z
認知症介護についての専門的な研修であり、今後、認知症に関わる仕事をしていく上で必要になる資格である。
それで応募の条件などをあれこれ考えた末に、職員Zさんに受講してみないかと勧めた。
本人の承諾をもらえたので、申込書を書くよう言った。
その申込書類には名前、住所、職歴などに加えて、「受講の動機」という欄があり、本人が考えて埋めることになる。
そのZさんは、年齢は若いがヘルパーステーションりんでずっと通してきた頑張り屋である。
いろいろ辛そうな時期もあったが、僕は何もしてあげられなかった。
いや、いろんな声をかけたり、アドバイスしたりということはできても、
最後はやはり、自分自身で悩み、考え、自ら結論を出して進まなければならない。
そんな日々を3年過ごしてきた彼女が出してきた「受講の動機」を読んで、僕は胸が熱くなった。
いつもアホみたいに騒いでいた彼女がこんなことを考えながら、今日まで歩いてきたのかと思うと、
嬉しくもあり、誇りでもあり、Zさんの成長は上司として、これ以上ない喜びである。
外部に出すのもどうかと思ったが、是非多くの人にも読んで欲しいと思ったので、UPすることにした。
少し長くなるが、彼女の努力に敬意を示して、手を付けずにそのままUPする。
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「研修受講の動機」
人には、見てわかるものと見た目ではわからないことがある。その見えないものを、どうケアするかが、これからの介護に求められるのだと感じている。 私は訪問介護員として3年目を迎えているが、訪問だからなのか、毎日、昨日にはない事が起こり、そんな日々を私なりに楽しみ有意義に過ごしている。
今回、認知症の研修があることを伝えられ、一瞬にして私の頭の中に、これまで関わった方の顔が浮かんできた。あの方は私と過ごしてくれたあの日々を幸せだと感じることができただろうか?認知症という病と向き合えた時間は貴重で私の人生にとって大きな影響を与えてくれたと感じている。
初めて関わった方は一人暮らしで認知症と末期ガンであり、終末ケアまで関わった方である。家族以外の人を拒むので、私達介護員は、彼女の屋号を名乗り、親戚であることを認めてもらわないと家に入ることができなかった。彼女にとって他人になってしまうと大声で怒鳴られ食事もお薬も飲んでいただけなかった。徘徊も何度もあり、探し回って自宅から5キロも離れた所で保護されたこともあった。
そんな彼女は転倒がきっかけで、どんどん体力が低下し、ついに寝たきりになってしまった。酸素を装着しだした頃、昼に訪問すると、左手が汚れているのに気が付いた。だが、まずは排泄介助から行い清拭しようと準備していると臭いに気づき、もしやと思い恐る恐るよく左手を見ると、なんと、自分が排泄したものを持っているのだ。私は嫌がる本人に怒鳴られながらも半泣きで歯を食いしばりながら洗った。お腹が空いたと訴える彼女に、「きれいにしてから食事しましょうね」と爪の間をつま楊枝で取り除いたあの時が今でも忘れられない。
しかし、私が混乱していただけで彼女は何もなかったようにその後の昼食を「あいえな~で~じま~さん」と笑顔で過ごしていた。逆に私が失敗しているような気持ちになり、食事が遅くなりすみませんでしたと謝りながら介助した。なぜなのだろうとずっと考えてみた。彼女は排泄したのに気づき、不快感もあるので自分でどうにかしようと考えた結果の行為だったのだろうか。手に付いたのを見て何を感じていたのだろう。ショックはなかっただろうか・・・。
認知症(という病名に変わった)は、我々介護する側のためかもしれない。
認知症の彼らが、これから訪れる課題に一緒に乗り越えられるように援助する側の努力が必要なのだと思う。彼らが最も自分らしくいれる環境が創れるように、意外にも、本人より彼らを取り巻く人がこの病に向き合える強さが必要なのではないだろうか。
彼女はその後痛みもまし苦しむこともあったが、早朝誰かに見守られるいことなく眠るように亡くなられた。彼女の人生にとってみれば認知症であった期間は短い間で、一緒に過ごせた、笑いあったあの日々に幸せであったと感じてくれていただろうか。
認知症は、目では確認できない彼らの中にある見えない病である。だが決して私たちが関わることが治療でもなく、和らげることもできない。しかし、そこには彼らだからこそ感じ取れるものや生き様があり、老いていくだけでなく自身の歴史を振り返れることができる手段を得ているのかもしれない。
まだまだ私は、一生のうちの4分の1程度しか生きているだけでこれから長い一生が待っている。だからまだ立派な大人といえる自信もない。しかし、この介護職は意外にも私を私らしくさせてくれる気持ちの良い職業だ。この受講を通してこれからの私の人生にも、仕事にも待ち受ける多くの課題を乗り越えられる力を身につけたいと強く望んでいる。
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頑張れ、Z
ありがとう、Z
浦添市絵手紙展
昨日は浦添市で行われて絵手紙展にデイサービスえんのみなさんが行ってきた。
地域の人たちが一生懸命に作った絵手紙を見るのは面白いし、知り合いが出展しているのも多い。
今回はデイのスタッフが自分たちでネタを拾ってきて行ってみようと企画したものである。
雨が朝から降っていたので心配だったが、大過なく無事に終了したようだ。
外出のイベントって楽しいけれども、スタッフにとってはプラスαのお仕事になるため、
自分たち自身が考えて、計画して、実行して、楽しく思えないとあまり意味がない。
しかし、お年寄りの一人ひとりの笑顔は何事にも変えられないのものだ。
これからもどんどん自分たちで企画して実行していただきたい。
失敗を恐れずに、安きに流されずに、挑戦し続けて欲しい。
プライバシーの関係上、使える写真が少なくてすみません。この写真も縦に治す方法がわかりません。あしからず
地域の人たちが一生懸命に作った絵手紙を見るのは面白いし、知り合いが出展しているのも多い。
今回はデイのスタッフが自分たちでネタを拾ってきて行ってみようと企画したものである。
雨が朝から降っていたので心配だったが、大過なく無事に終了したようだ。
外出のイベントって楽しいけれども、スタッフにとってはプラスαのお仕事になるため、
自分たち自身が考えて、計画して、実行して、楽しく思えないとあまり意味がない。
しかし、お年寄りの一人ひとりの笑顔は何事にも変えられないのものだ。
これからもどんどん自分たちで企画して実行していただきたい。
失敗を恐れずに、安きに流されずに、挑戦し続けて欲しい。
プライバシーの関係上、使える写真が少なくてすみません。この写真も縦に治す方法がわかりません。あしからず
コムスン「指定」取り消し
外出先から事務所に戻ると「コムスン『指定』打ち切り」と夕刊にて報道されている。
びっくりだ。
実に残念なことだが、記事が伝える内容が事実だとするのならば厚労省がとった処分は当然のことだ。「指定の打ち切り」とは「介護事業を行ってはいけない」ということだから、事業所としては「死刑判決」に近い。残念だが、よほど悪質な行為があったと思われる。
同じ介護事業所としてすぐに思うのは、利用者のこともさることながら、現場の職員たちの気持ちである。沖縄でも、浦添市でも、コムスンの事業所は営業している。しかし、僕の知る限り、一人ひとりの社員やヘルパーさんたちはよく頑張っていたと思う。
報道によると「事業所指定に関する虚偽の申請」が打ち切りの原因であることから、上層部の一部幹部しか知らなかったのではないかと思われる。
日々の介護に一生懸命に汗を流し、誠実に利用者と向き合っていたヘルパーさんたちの虚しさや、コムスンを信じて真面目に会社を現場最前線で支えてきた社員さんたちの悔しさを思うと、同じ介護事業経営者として怒りを通り越して悲しくなる話だ。
県としても、これを機会に他の事業所でも同じような虚偽申請がないか、しっかりと調査した方がいいだろう。
コムスンという会社がなくなっても構わないが、そこで真面目に働いてきたスタッフとその利用者にしわ寄せが行かないように、沖縄県には迅速・適切かつ慎重な処分をお願いしたい。
びっくりだ。
実に残念なことだが、記事が伝える内容が事実だとするのならば厚労省がとった処分は当然のことだ。「指定の打ち切り」とは「介護事業を行ってはいけない」ということだから、事業所としては「死刑判決」に近い。残念だが、よほど悪質な行為があったと思われる。
同じ介護事業所としてすぐに思うのは、利用者のこともさることながら、現場の職員たちの気持ちである。沖縄でも、浦添市でも、コムスンの事業所は営業している。しかし、僕の知る限り、一人ひとりの社員やヘルパーさんたちはよく頑張っていたと思う。
報道によると「事業所指定に関する虚偽の申請」が打ち切りの原因であることから、上層部の一部幹部しか知らなかったのではないかと思われる。
日々の介護に一生懸命に汗を流し、誠実に利用者と向き合っていたヘルパーさんたちの虚しさや、コムスンを信じて真面目に会社を現場最前線で支えてきた社員さんたちの悔しさを思うと、同じ介護事業経営者として怒りを通り越して悲しくなる話だ。
県としても、これを機会に他の事業所でも同じような虚偽申請がないか、しっかりと調査した方がいいだろう。
コムスンという会社がなくなっても構わないが、そこで真面目に働いてきたスタッフとその利用者にしわ寄せが行かないように、沖縄県には迅速・適切かつ慎重な処分をお願いしたい。
ドラゴンフルーツ
我が家のベランダのドラゴンフルーツが大きな花を咲かせています
どうです?きれいでっしゃろ。
と言っても、世話はほとんど親父がしていて、僕や家族は食べるだけです。
子どもたちと一緒に受粉作業をして、収穫が楽しみです。
どうです?きれいでっしゃろ。
と言っても、世話はほとんど親父がしていて、僕や家族は食べるだけです。
子どもたちと一緒に受粉作業をして、収穫が楽しみです。
土曜の事務所風景
久しぶりの写真つきUPです。
写真がUPできない理由がわかりました。写真が大きすぎたみたいです。
とは言っても、今までは出来たのに、いきなり変更されても僕らは対応できないんです・・・。
とりあえず、これからは写真付きUPが可能になりました
ただ、先週撮った東京の風景や総務ランチの写真がUPできないのは残念です。
さて、ところで、今日は土曜日。しかも月初めの土曜日。
我々のように介護保険や自立支援法関係のお仕事をしている人は知っていると思うけど、
そうです、通称「レセ」に追われる忙しい時期なのだ
そこで、レセに追われる慌しい事務所の風景が
でも、本当は手よりも口が数倍も動くメンバー
今日はお天気もいいし、みんなで笑いながら、おしゃべりしながら、楽しく仕事ができるのは、
なんとなく平日とは違う土曜日勤務のせいかも・・・
なんとなくほのぼのまったりと皆と過ごせる土曜日勤務。まんざら嫌いじゃないんだなぁ、これが。
頑張れみんな働けみんなおしゃべりは止めろ
写真がUPできない理由がわかりました。写真が大きすぎたみたいです。
とは言っても、今までは出来たのに、いきなり変更されても僕らは対応できないんです・・・。
とりあえず、これからは写真付きUPが可能になりました
ただ、先週撮った東京の風景や総務ランチの写真がUPできないのは残念です。
さて、ところで、今日は土曜日。しかも月初めの土曜日。
我々のように介護保険や自立支援法関係のお仕事をしている人は知っていると思うけど、
そうです、通称「レセ」に追われる忙しい時期なのだ
そこで、レセに追われる慌しい事務所の風景が
でも、本当は手よりも口が数倍も動くメンバー
今日はお天気もいいし、みんなで笑いながら、おしゃべりしながら、楽しく仕事ができるのは、
なんとなく平日とは違う土曜日勤務のせいかも・・・
なんとなくほのぼのまったりと皆と過ごせる土曜日勤務。まんざら嫌いじゃないんだなぁ、これが。
頑張れみんな働けみんなおしゃべりは止めろ