
上司の喜び
沖縄県福祉保健部より平成19年度認知症介護実践研修の受講者募集の案内が届いた。
認知症介護についての専門的な研修であり、今後、認知症に関わる仕事をしていく上で必要になる資格である。
それで応募の条件などをあれこれ考えた末に、職員Zさんに受講してみないかと勧めた。
本人の承諾をもらえたので、申込書を書くよう言った。
その申込書類には名前、住所、職歴などに加えて、「受講の動機」という欄があり、本人が考えて埋めることになる。
そのZさんは、年齢は若いがヘルパーステーションりんでずっと通してきた頑張り屋である。
いろいろ辛そうな時期もあったが、僕は何もしてあげられなかった。
いや、いろんな声をかけたり、アドバイスしたりということはできても、
最後はやはり、自分自身で悩み、考え、自ら結論を出して進まなければならない。
そんな日々を3年過ごしてきた彼女が出してきた「受講の動機」を読んで、僕は胸が熱くなった。
いつもアホみたいに騒いでいた彼女がこんなことを考えながら、今日まで歩いてきたのかと思うと、
嬉しくもあり、誇りでもあり、Zさんの成長は上司として、これ以上ない喜びである。
外部に出すのもどうかと思ったが、是非多くの人にも読んで欲しいと思ったので、UPすることにした。
少し長くなるが、彼女の努力に敬意を示して、手を付けずにそのままUPする。
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人には、見てわかるものと見た目ではわからないことがある。その見えないものを、どうケアするかが、これからの介護に求められるのだと感じている。 私は訪問介護員として3年目を迎えているが、訪問だからなのか、毎日、昨日にはない事が起こり、そんな日々を私なりに楽しみ有意義に過ごしている。
今回、認知症の研修があることを伝えられ、一瞬にして私の頭の中に、これまで関わった方の顔が浮かんできた。あの方は私と過ごしてくれたあの日々を幸せだと感じることができただろうか?認知症という病と向き合えた時間は貴重で私の人生にとって大きな影響を与えてくれたと感じている。
初めて関わった方は一人暮らしで認知症と末期ガンであり、終末ケアまで関わった方である。家族以外の人を拒むので、私達介護員は、彼女の屋号を名乗り、親戚であることを認めてもらわないと家に入ることができなかった。彼女にとって他人になってしまうと大声で怒鳴られ食事もお薬も飲んでいただけなかった。徘徊も何度もあり、探し回って自宅から5キロも離れた所で保護されたこともあった。
そんな彼女は転倒がきっかけで、どんどん体力が低下し、ついに寝たきりになってしまった。酸素を装着しだした頃、昼に訪問すると、左手が汚れているのに気が付いた。だが、まずは排泄介助から行い清拭しようと準備していると臭いに気づき、もしやと思い恐る恐るよく左手を見ると、なんと、自分が排泄したものを持っているのだ。私は嫌がる本人に怒鳴られながらも半泣きで歯を食いしばりながら洗った。お腹が空いたと訴える彼女に、「きれいにしてから食事しましょうね」と爪の間をつま楊枝で取り除いたあの時が今でも忘れられない。
しかし、私が混乱していただけで彼女は何もなかったようにその後の昼食を「あいえな~で~じま~さん」と笑顔で過ごしていた。逆に私が失敗しているような気持ちになり、食事が遅くなりすみませんでしたと謝りながら介助した。なぜなのだろうとずっと考えてみた。彼女は排泄したのに気づき、不快感もあるので自分でどうにかしようと考えた結果の行為だったのだろうか。手に付いたのを見て何を感じていたのだろう。ショックはなかっただろうか・・・。
認知症(という病名に変わった)は、我々介護する側のためかもしれない。
認知症の彼らが、これから訪れる課題に一緒に乗り越えられるように援助する側の努力が必要なのだと思う。彼らが最も自分らしくいれる環境が創れるように、意外にも、本人より彼らを取り巻く人がこの病に向き合える強さが必要なのではないだろうか。
彼女はその後痛みもまし苦しむこともあったが、早朝誰かに見守られるいことなく眠るように亡くなられた。彼女の人生にとってみれば認知症であった期間は短い間で、一緒に過ごせた、笑いあったあの日々に幸せであったと感じてくれていただろうか。
認知症は、目では確認できない彼らの中にある見えない病である。だが決して私たちが関わることが治療でもなく、和らげることもできない。しかし、そこには彼らだからこそ感じ取れるものや生き様があり、老いていくだけでなく自身の歴史を振り返れることができる手段を得ているのかもしれない。
まだまだ私は、一生のうちの4分の1程度しか生きているだけでこれから長い一生が待っている。だからまだ立派な大人といえる自信もない。しかし、この介護職は意外にも私を私らしくさせてくれる気持ちの良い職業だ。この受講を通してこれからの私の人生にも、仕事にも待ち受ける多くの課題を乗り越えられる力を身につけたいと強く望んでいる。
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頑張れ、Z
ありがとう、Z
認知症介護についての専門的な研修であり、今後、認知症に関わる仕事をしていく上で必要になる資格である。
それで応募の条件などをあれこれ考えた末に、職員Zさんに受講してみないかと勧めた。
本人の承諾をもらえたので、申込書を書くよう言った。
その申込書類には名前、住所、職歴などに加えて、「受講の動機」という欄があり、本人が考えて埋めることになる。
そのZさんは、年齢は若いがヘルパーステーションりんでずっと通してきた頑張り屋である。
いろいろ辛そうな時期もあったが、僕は何もしてあげられなかった。
いや、いろんな声をかけたり、アドバイスしたりということはできても、
最後はやはり、自分自身で悩み、考え、自ら結論を出して進まなければならない。
そんな日々を3年過ごしてきた彼女が出してきた「受講の動機」を読んで、僕は胸が熱くなった。
いつもアホみたいに騒いでいた彼女がこんなことを考えながら、今日まで歩いてきたのかと思うと、
嬉しくもあり、誇りでもあり、Zさんの成長は上司として、これ以上ない喜びである。
外部に出すのもどうかと思ったが、是非多くの人にも読んで欲しいと思ったので、UPすることにした。
少し長くなるが、彼女の努力に敬意を示して、手を付けずにそのままUPする。
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「研修受講の動機」
人には、見てわかるものと見た目ではわからないことがある。その見えないものを、どうケアするかが、これからの介護に求められるのだと感じている。 私は訪問介護員として3年目を迎えているが、訪問だからなのか、毎日、昨日にはない事が起こり、そんな日々を私なりに楽しみ有意義に過ごしている。
今回、認知症の研修があることを伝えられ、一瞬にして私の頭の中に、これまで関わった方の顔が浮かんできた。あの方は私と過ごしてくれたあの日々を幸せだと感じることができただろうか?認知症という病と向き合えた時間は貴重で私の人生にとって大きな影響を与えてくれたと感じている。
初めて関わった方は一人暮らしで認知症と末期ガンであり、終末ケアまで関わった方である。家族以外の人を拒むので、私達介護員は、彼女の屋号を名乗り、親戚であることを認めてもらわないと家に入ることができなかった。彼女にとって他人になってしまうと大声で怒鳴られ食事もお薬も飲んでいただけなかった。徘徊も何度もあり、探し回って自宅から5キロも離れた所で保護されたこともあった。
そんな彼女は転倒がきっかけで、どんどん体力が低下し、ついに寝たきりになってしまった。酸素を装着しだした頃、昼に訪問すると、左手が汚れているのに気が付いた。だが、まずは排泄介助から行い清拭しようと準備していると臭いに気づき、もしやと思い恐る恐るよく左手を見ると、なんと、自分が排泄したものを持っているのだ。私は嫌がる本人に怒鳴られながらも半泣きで歯を食いしばりながら洗った。お腹が空いたと訴える彼女に、「きれいにしてから食事しましょうね」と爪の間をつま楊枝で取り除いたあの時が今でも忘れられない。
しかし、私が混乱していただけで彼女は何もなかったようにその後の昼食を「あいえな~で~じま~さん」と笑顔で過ごしていた。逆に私が失敗しているような気持ちになり、食事が遅くなりすみませんでしたと謝りながら介助した。なぜなのだろうとずっと考えてみた。彼女は排泄したのに気づき、不快感もあるので自分でどうにかしようと考えた結果の行為だったのだろうか。手に付いたのを見て何を感じていたのだろう。ショックはなかっただろうか・・・。
認知症(という病名に変わった)は、我々介護する側のためかもしれない。
認知症の彼らが、これから訪れる課題に一緒に乗り越えられるように援助する側の努力が必要なのだと思う。彼らが最も自分らしくいれる環境が創れるように、意外にも、本人より彼らを取り巻く人がこの病に向き合える強さが必要なのではないだろうか。
彼女はその後痛みもまし苦しむこともあったが、早朝誰かに見守られるいことなく眠るように亡くなられた。彼女の人生にとってみれば認知症であった期間は短い間で、一緒に過ごせた、笑いあったあの日々に幸せであったと感じてくれていただろうか。
認知症は、目では確認できない彼らの中にある見えない病である。だが決して私たちが関わることが治療でもなく、和らげることもできない。しかし、そこには彼らだからこそ感じ取れるものや生き様があり、老いていくだけでなく自身の歴史を振り返れることができる手段を得ているのかもしれない。
まだまだ私は、一生のうちの4分の1程度しか生きているだけでこれから長い一生が待っている。だからまだ立派な大人といえる自信もない。しかし、この介護職は意外にも私を私らしくさせてくれる気持ちの良い職業だ。この受講を通してこれからの私の人生にも、仕事にも待ち受ける多くの課題を乗り越えられる力を身につけたいと強く望んでいる。
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頑張れ、Z

ありがとう、Z

Posted by
松本哲治
at
2007年06月09日
19:24
Comments( 8 )
Comments( 8 )
この記事へのコメント
てっちー殿、お初コメントです。今日初めてココきました!
毎月、百花繚乱の送付、どうもありがとう。
(記事に関連しないコメントで すみません)
来月からしばらくまた江戸滞在なので、(今は早稲田にいらっしゃる)
貴殿恩師にもお会いしにいく予定だ!
常に二択、最後はやはり、
「自ら結論を出して進む」ですね!
毎月、百花繚乱の送付、どうもありがとう。
(記事に関連しないコメントで すみません)
来月からしばらくまた江戸滞在なので、(今は早稲田にいらっしゃる)
貴殿恩師にもお会いしにいく予定だ!
常に二択、最後はやはり、
「自ら結論を出して進む」ですね!
Posted by mico at 2007年06月09日 23:09
職員乙さんの受講動機で
「 認知症の彼らが、これから訪れる課題に一緒に乗り越えられるように援助する側の努力が必要 」 まさにその通りだと思います。
乙さんのヘルパーを通じての介護の仕事の苦悩、厳しさ、難しさ、喜び、悲しみ、そして生活とは、人生とは、人間とは何かを問い、考え、認知症の方の目線、気持ちに寄り添った思いが、とても伝わる内容だと思います。
とても感動しました。どこかの会長も、そこまでの思いがあればあんな事件は起きなかったのでは?
和田行男著「大逆転の痴呆ケア」の中に、認知症は「眼鏡のようなケアを」の一節がある。
「近視は治らない。しかし眼鏡と言う 補助具 があれば支障なく生活できる。 認知症も治らないが、 周りの人の適切な対応や、環境を整えれば、支障なく生活できる」 と言う趣旨の記述があった。
私たちのケアも視力に合わせた眼鏡のように、認知機能の低下に合わせたケアを行えば不安、不便なく生活できるのだろうと思う。
まさに周りのかかわりが大切だと思う。
職員乙さんも、認知症になった方は残念だが、周りの人の適切な対応や環境を整えれば、幸せに暮らせるのではないか?認知症の方と共に泣き、笑い、一生懸命に寄り添っている、とても素晴らしい方だと思います。
何かの機会に、職員さんの思いを知るのは素敵ですね。
がんばれ乙さん! 心から応援してます!
「 認知症の彼らが、これから訪れる課題に一緒に乗り越えられるように援助する側の努力が必要 」 まさにその通りだと思います。
乙さんのヘルパーを通じての介護の仕事の苦悩、厳しさ、難しさ、喜び、悲しみ、そして生活とは、人生とは、人間とは何かを問い、考え、認知症の方の目線、気持ちに寄り添った思いが、とても伝わる内容だと思います。
とても感動しました。どこかの会長も、そこまでの思いがあればあんな事件は起きなかったのでは?
和田行男著「大逆転の痴呆ケア」の中に、認知症は「眼鏡のようなケアを」の一節がある。
「近視は治らない。しかし眼鏡と言う 補助具 があれば支障なく生活できる。 認知症も治らないが、 周りの人の適切な対応や、環境を整えれば、支障なく生活できる」 と言う趣旨の記述があった。
私たちのケアも視力に合わせた眼鏡のように、認知機能の低下に合わせたケアを行えば不安、不便なく生活できるのだろうと思う。
まさに周りのかかわりが大切だと思う。
職員乙さんも、認知症になった方は残念だが、周りの人の適切な対応や環境を整えれば、幸せに暮らせるのではないか?認知症の方と共に泣き、笑い、一生懸命に寄り添っている、とても素晴らしい方だと思います。
何かの機会に、職員さんの思いを知るのは素敵ですね。
がんばれ乙さん! 心から応援してます!
Posted by まんたろう at 2007年06月11日 09:42
お松さん!
いい部下をお持ちですね。
【目には見えない】心の部分に触れ、それを【仕事】としている【福祉】関係の皆さん方には、家族として本当に頭が下がります。
家族であるがゆえに見えない【心のひずみ】の部分をサポートし、そしてケアしていく様は神々しくもありまた、羨ましくも感じています。
今後は【心のサポート】の大切さが、みんなに理解が広がっていくことを
望みます。
いい部下をお持ちですね。
【目には見えない】心の部分に触れ、それを【仕事】としている【福祉】関係の皆さん方には、家族として本当に頭が下がります。
家族であるがゆえに見えない【心のひずみ】の部分をサポートし、そしてケアしていく様は神々しくもありまた、羨ましくも感じています。
今後は【心のサポート】の大切さが、みんなに理解が広がっていくことを
望みます。
Posted by いっく at 2007年06月11日 10:13
本当に本当に素敵なスタッフですね。彼女の志望の動機を読みながら涙しました。その人は亡くなる前に「あ〜楽しかった」と思ってくれてますよ!私は確信してます。本当に生きるって素晴らしい事なんですね。何だか悲しい事件が多い昨今にいい話を聞かせてもらいました。ありがとうございます。
Posted by mana at 2007年06月11日 14:36
mico様、
コメントありがとう。てっちー?百花繚乱?東京滞在?E先生?
誰だろう、あなたは・・・。もしかして、
まんたろう様、
「認知症介護は眼鏡みたいなもの」早速使わせていただきます。
メモ、メモ。
いっく様、
でしょ~、いい部下でしょ~!
他にもいい子がたくさんいまっせ。(キャッチか!)
mana様、
ありがとう。自分の仕事を好きになる。仕事をお金を得る手段ではなく、生き方の具現としている人は素敵な人生になると思いますよ。
コメントありがとう。てっちー?百花繚乱?東京滞在?E先生?
誰だろう、あなたは・・・。もしかして、
まんたろう様、
「認知症介護は眼鏡みたいなもの」早速使わせていただきます。
メモ、メモ。
いっく様、
でしょ~、いい部下でしょ~!
他にもいい子がたくさんいまっせ。(キャッチか!)
mana様、
ありがとう。自分の仕事を好きになる。仕事をお金を得る手段ではなく、生き方の具現としている人は素敵な人生になると思いますよ。
Posted by お松 at 2007年06月12日 13:57
東京にて、このブログを拝見しています。乙さんは素晴らしい方ですね。久しぶりに心を打つ文章を読みました。
Posted by 池間哲郎 at 2007年06月13日 05:40
こんにちは、お久しぶりです☆
私は現在若年認知症の方に関わらせていただいています。
いつもいつも、何が正しいんだろう、どうしたらいいんだろう、と
理想と現実の狭間で悩み通しです。
でもZさんの文章、そしてみなさんのコメントを読ませていただいて、
私が大事にしたいものがスッキリと出てきました。
それを実現させるためには
乗り越えなければいけないことがたくさんありますが、
その態勢を作っていくのが私の役割です。
力をいただきました。Zさん、ありがとうございました。
私は現在若年認知症の方に関わらせていただいています。
いつもいつも、何が正しいんだろう、どうしたらいいんだろう、と
理想と現実の狭間で悩み通しです。
でもZさんの文章、そしてみなさんのコメントを読ませていただいて、
私が大事にしたいものがスッキリと出てきました。
それを実現させるためには
乗り越えなければいけないことがたくさんありますが、
その態勢を作っていくのが私の役割です。
力をいただきました。Zさん、ありがとうございました。
Posted by 三日坊主 at 2007年06月13日 12:18
池間様、
いつも(遠くからも)応援ありがとうございます。
21日はモーニングセミナーでお会いしましょう。
三日坊主様、
理想と現実のギャップが大きいのが僕らの仕事の特徴かもしれませんね。
悩みや迷いはつき物ですが、「成長し続ける者は、悩み続ける」んだそうです。また一緒に頑張りましょう。
いつも(遠くからも)応援ありがとうございます。
21日はモーニングセミナーでお会いしましょう。
三日坊主様、
理想と現実のギャップが大きいのが僕らの仕事の特徴かもしれませんね。
悩みや迷いはつき物ですが、「成長し続ける者は、悩み続ける」んだそうです。また一緒に頑張りましょう。
Posted by お松 at 2007年06月18日 09:55
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