2008年08月27日

蝉と青空

ひだまり通信9月号「百花繚乱日記」より

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「 蝉 と 青 空 」

あの日は、真夏日だった。

濃い青が広がる夏空の美しさが恨めしいほどのうだるような暑さだった。
遠くで泣いている蝉の声に僕が気がついたのは、
正午過ぎに彼女を乗せた霊柩車が多くの人に見守られながら自宅を出発した後だった。

仕事柄、人の死に接することは少なくないものだが、
ライフサポートを設立して六年、現職社員の死を迎えるのは初めてのことだった。

彼女は僕らのデイサービスで厨房を担当しているパートの職員だった。
年齢が最年長だったのと、周りを温かく見守る優しい人柄から、多くの同僚職員から「かあちゃん」と慕われていた。
彼女が手がける食事は、沖縄の家庭で母から子へと引き継がれてきたごく普通の家庭料理であったが、
利用者の誰からも愛されたのは、それが誰にとっても「おふくろ」の味であり、
彼女の手抜きをしない性格が料理にも現れたせいだった。

彼女はいつも黙々と働いている人だった。

多くの職員が去っていった荒れた時代でもいつも厨房で黙々と働いている人だった。
愚痴を言わず、人を責めず、不満を漏らさず、笑顔を絶やすことなく厨房から利用者と職員を見つめていてくれた。

僕は彼女に優しく接したことはあまりなかった。
それは、彼女が僕の叔母であったために、
他の職員の手前、むしろ、努めて上司と部下以上の親密さを避けるようにしていたからだった。
そんな冷たい甥っ子の僕に対しても事あるごとに「いつも感謝しています」と、頭を下げた。
働きづくめの苦労をよく知る彼女の少ない言葉には、感謝して生きることへの深い思いが感じられた。

そんな彼女が一度だけ、いろいろあって落ち込んでいた僕に
「負けないで頑張りなさいよ。わかる人にはわかるからね」
と言ってくれたことがある。

そんな彼女が癌を患い、入退院を繰り返しながらも厨房に一年半も立ち続けてくれた。
最後は自宅でと希望し、僕らもみんなで彼女のお世話を一生懸命にさせていただいたのは、
みんなの彼女への恩返しでもあった。
家族に見守られながら自宅から天国へと旅立った姿は、彼女らしい周りに迷惑をかけない静かな最期だった。

出棺後、生前の希望で会社の前を通ってくれた。
僕らは全員で事務所前に一列に整列し、彼女を先頭に乗せた車列に最後の別れを告げて手を合わせた。
長いクラクションが通り過ぎると、美しい青空に蝉の声がまた響いていた。

僕はあの風景を忘れない。


 

 

2007年04月26日

吾唯足知

ひだまり通信5月号の「百花繚乱日記」より

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「 吾 唯 足 知 」

 僕は「ほっかほっか亭」のから揚げ弁当が大好きでよく食べているが、そのほか弁のから揚げを食べながらいつも思うことがある。それは、「チキンのから揚げとは、これ以上美味しい必要はあるのだろうか?」ということである。

つまり、僕にとってほか弁のチキンから揚げはもう既に充分おいしいのである。もちろん、もっと高くて上質の肉を使った最高級チキンから揚げがこの世の中には存在していることも承知している。探せば、千円以上するから揚げもあるだろう。

 しかしだ、から揚げに二六〇円(ほか弁のから揚げおかずのみが二六〇円)以上出して、これ以上のから揚げを求める必要が僕にはないのだ。

 本物の味がわからない奴だと笑う人もいるかもしれないが、アホを承知で公言しておく。これはお金の問題ではない。繰り返すが、「から揚げとは、これ以上美味しい必要はあるのか?」という根源的な問いなのである。似たようなものは僕の周りにはいくらでもある。

 那覇市の新都心に「○まんぎ」という回転すし屋がある。僕は、ここに行く度に同じことを考える。「にぎりとは、これ以上うまい必要があるのか?」と。

 わかってる、わかっているよ、あなたが言わんとしている事は。たかが回転すし屋で、高級でも何でもないありきたりの大衆すし屋なのかもしれない。しかし、それでも僕には「○まんぎ」で充分なのである。あれで充分うまいのである。

 繰り返すが、お金の問題ではない。ゆまんぎにだって、ちゃんと高いお皿もあるんだぜ。

 「ユニクロ」もそうだ。服のチョイスに頭を悩ます必要もなく、店にあるものから適当にサイズだけ選べば、それなりのお値段でそれなりのレベルを保つことができるので、服に関心もセンスもない僕は、そういう意味からユニクロには大変感謝している。これもそう「洋服とは、これ以上いいものである必要はあるのか?」と思ってしまう。

 車も同じ理由から軽自動車に乗っているが、お金の問題ではない(しつこいが繰り返す)。

 「吾唯足知(われただたるをしる)」という言葉がある。

 人間の欲望には終わりがないから、欲を言うと限がないよと言うことだと思う。
「まだまだ足りない、もっともっと欲しい」ではなく、「これで満足、充分幸せ」と、
「自分の今」に、「自分を取り巻く世界」に、日々感謝しながら過ごしたいものだ。 

 そうなのだ、僕は足るを知っているのであり、決してお金がないのではないのだ。

はっはっは!(しつこ過ぎて強がりに聞こえるガ-ン
 

 

2007年03月06日

最強世代

そう言えば、今月2月号の百花繚乱日記をUPするの忘れてた。どうぞよろしく。
ひだまり通信2月号のコラム「百花繚乱日記」より

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 「 最 強 世 代 」

 先日、コンビニに買い物に入ると、中学生が五名ほど廊下をふさぐように雑誌コーナーの前に座り込んで立ち読み(座り読み?)している。後ろからツカツカと近づいて、強くなく弱くない実に絶妙な加減で後ろから背中にケリを入れてやった。
 
 「邪魔になってるのがわからねぇのか、てめぇは、ふはぁ?」
と低めの声でドスを聞かせて怒鳴ったら、不意を突かれてびっくりしたのか、飛び上がって「すみません」と頭を下げて出て行った。

 店員が注意すると、逆切れして、店にいたずらされたり嫌がらせをされたりするので、なかなか注意できないのが実情なのだ。
 
 僕は公園や道で学生服でタバコを吸っているのを見つけると必ず(必ずでもないか、人数などの状況判断をした上でヒミツ)注意して、取り上げるようにしている。
「悔しかったら、お前も大人になったら、ガキどもから取り上げろ」
と言っている。
 
 しかし、これは、けっして自慢でも、カッコつけているのでも、威張って子どもを威嚇しているわけでもない。ぶっちゃけて言えば、それほど本気でもない。これは、あくまでも演技であり芝居である。

 なぜかと言うと、こんなことをするのは僕ら世代の義務だと思っている。

 僕ら(三十代から四十代の男性)は、社会の中で「最強世代」なのだ。これ以上年配になり腹でも出てくると、逆に「うるせぇ、じじぃ」と反撃されるかもしれないし、二十代ではドスが効かず、逆にチンピラっぽくなる。女性ならなおさら危険だ。

 もっと言えば、僕だって、未成年の頃にタバコを吸ったりお酒を飲んだり盗みをしたりした、こともあったような気がする、と言えなくもなく、と言えばウソになるかもしれない(チョー遠回し表現)。

 正直に言えば、お前が注意できるガラかとも言えるぐすん

 でもね、僕らは今、子どもたちに「社会には怖いオヤジムキーもいる」ことを教えないといけないと感じている。僕は、みんながみんな僕と同じようなことをするべきだとも、こんなやり方や言い方が素晴らしいとも思っていない。

 でも、「世の中にはこんな奴もいる」ことを子どもたちは知っていた方がいいし、「こんな変な奴も、むしろ一人くらいはいた方がいい」と考えている。

 もちろん、見て見ぬふりは簡単だが、先のコンビニの例で言えば、「最強世代」+「客」だからこそできる、いわば特権でも義務でもあるのだ

 さぁ、最強世代の男性諸君、あなたも一緒に「変な怖いオヤジムカッ」してみませんか?
 

 

2007年01月18日

お前がやれ!

「ひだまり通信」のコラム「百花繚乱日記」より転載。

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お前がやれ!

僕には三人の子どもがいるが、先日、ある人に
「子どもたちには、どんな大人になり、どんな人生を送って欲しいか?」
と質問された。

大切なことだが、時間に流されながらそれほど深く考えもせずに今日まで過ごしてきた。

そこで、ちょっと真剣に考えてみた。 

 

2006年12月18日

お料理と介護

先日、山本彩香さんのお店に行った。久米にある有名な琉球料理の店である。

山本さんのお料理は、いつも丁寧で品がある。
それでいて気取ったところがなく、優しく包み込んでくれるおいしさは、
彩香さんご自身の人間性がお料理を通して出てしまうのだろう。

胃袋だけじゃなく、心まで満たしてくれる不思議な力を持っている。 

 

2006年11月16日

今夜は抱いて

ひだまり通信12月号の「百花繚乱日記」から

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「今夜は抱いて」

今朝、末の長男(四才)を保育園に連れて行った。
めったにないことだが、今朝は機嫌がすこぶる悪く、駄々をこねて、車から絶対に降りようとしない。
無理やりも嫌だったので、会社に電話を入れて、保育園の前でじっくりと説得を始めた。

五分経ち、十分が経過したが、結局は説得工作もうまく行かず、
プライベートな事情で仕事に迷惑はかけないよう心がけているので、
最後は力ずくで引きずり出して先生に預けた。
大泣きしながら両手を伸ばしバタバタと暴れている息子を置き去りにしていくのは、
実はかなり辛かった。

「共働きだから仕方がない、みんなもやっている、そうやって大きくなっていくもの」

自分で自分に言い聞かせて、頭でいろいろ割り切ろうとしても、
息子の姿や声の残像がどうしても振り払えずにオフィスまでの道のり、
不覚にも、ちょっとだが涙が出た。 

 

2006年10月21日

木になる話

今から約二年位前の話だ。

その頃、ライフサポートてだこは、ある意味でドン底にいた。
次々と職員が退職し、社内の雰囲気は最低であった。
代表の僕と、社員との心の溝は深く、話し合えば話し合うほど傷つけ合う悪循環の中にいた。
主要な職員が次々に退職して、後任は決まらず、採用は進まず、現場では待たせるわけにはいかないお客様への対応で、肉体的にも精神的にも、僕はクタクタに疲れきっていた。
心まで憔悴しきっていた。