53歳責任世代が浦添市の新しい明日を創る! 松本哲治「百花繚乱日記」ブログ

まつもとてつじのドタバタ市長奮闘記

僕の慰霊の日

ひだまり通信7月号「百花繚乱日記コラム」より転載

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「僕の慰霊の日」

 ある日、読んでみておかしな部分があれば訂正して赤ペン入れろと、文章の書かれた紙を持って父がやってきた。それは東京にある某有名大学の学生によって書いたレポートで、「ここで、生きていく ~沖縄戦の記憶と共に~ 」というタイトルの取材記録であった。そこには、父が八歳の頃に体験した沖縄戦のことが綴られていた。

 僕と父は、僕が一時期沖縄を離れていた頃を除いて、(現在も)ずっと同居しているわけだが、その関係は少し説明を要する。父は孤児として学校にもろくに行けず苦労ばかりしてきた影響で、僕に小さな頃から勉強していい仕事に付けと言い続けてきた。父にとっての「いい仕事」とは安定し比較的苦労の少ない公務員のことであった。人生とは不思議なもので、そんな父に育てられたにもかかわらず、まるで父の教えに反抗するかのごとく、僕は「安定」とは程遠い人生を求め続け、そしてこうなってしまった。

 そんな万年反抗期の僕が、父の昔話など真面目に聞くはずもなく、今回のレポートを読んで初めて僕は父の人生に向き合った気がした。第三者による取材形式で綴られた父の証言には、淡々と、しかし、壮絶なまでの沖縄戦の記憶が書かれていた。
 
 迫ってくるアメリカ兵の残酷な噂にみんなが怯えていたこと、家族全員で手りゅう弾を囲み自爆したこと、目の前で家族が吹き飛び血まみれにうごめいていたこと、無我夢中でそこから一人逃げ出したこと、孤児院では次々と孤児たちが死んでいったこと、あまりの空腹のせいで怖いものはないもなかったこと、自決の場所に置いていった幼い弟を孤児院で待ち続けたこと、結局現れることのなかったその弟のことが今でもずっと忘れられずにいることなど、そこにはリアルな沖縄戦が描かれていた。
 
 正直、これほど悲惨な幼少期を生きるしかなかった父の人生を想像し、胸が痛くてたまらなかった。

 最後の部分で、孤児院にいた頃の夢はと問われて、「独りで寂しかったから、子どもをたくさん作って育てたかった」と父は答えている。そうだったのだ、僕は父の夢だったのだ。僕から見れば、彼はうるさい変な頑固親父でも、彼から見れば、息子の僕は夢だったのだ。そんな当たり前のことに気が付いて、ついに涙を抑えることができなかった。

 六月二十三日は沖縄慰霊の日。あの戦争終結から今年で六六年が過ぎ去ろうとしている。そろそろ僕の長い反抗期も終わりにしなくては、父が元気でいるうちに・・・。


Posted by 松本哲治 at 2011年06月29日   17:41
Comments( 7 )
この記事へのコメント
お疲れ様です。

ひだまり通信で見て、なんだかジーンときました。

父親の存在って言葉では言えないほど、大きなものですね。


※ひだまり通信ですが、ユニプラ宛てと、比嘉勇樹宛ての2通届きます。

みんなで観覧してますので、どちらか一通でOKですよ。

いつも楽しみにしています。またよろしくお願い致します(^^)
Posted by 比嘉勇樹比嘉勇樹 at 2011年06月29日 17:51
比嘉様、
いつもご愛読ありがとうございます。ちょっと恥ずかしい気もしましたが、思い切りました。
そうでしたか、それではユニプラ宛てに送らせて頂きます。これからもよろしく!!
Posted by 松本 at 2011年06月30日 18:15
実は私も先月から楽天日記を始めました。
父の日には「父に捧げるバラード」  - 叫べなかった私の心 - と
題して、ブログに書いたら、たくさんのコメントをいただきました。
「何だ、お前もブログ始めたんだったら、ホームページ・アドレス教えろ!!」
これ以上そちらにバカにされたら、このブログにコメントできなくなるので
オフレコにしておきまぁす。
Posted by 背番号のないエース at 2011年06月30日 18:23
松本さんのお父さんも戦災孤児でいらしたのですね。コラムを読んで涙が出そうになり、胸が苦しくなります。私の親父も戦災孤児です。当時10歳。西原具志頭、摩文仁と逃げている間に、目の前で次々と祖父母、父母、姉、弟二人が死んでいったそうです。最後に残った弟(当時5歳くらい)は水が飲みたいといって死んでいったそうです。私が大学に入った頃から、毎年慰霊の日には摩文仁に行っています。そのころから親父の戦争体験を聞いています。
松本さんがコラムに書いてあることと同じです。いくつもの死体を乗り越え、怖いという感覚もなくなり、無我夢中で逃げたそうです。LST(上陸用舟艇)に乗せられ、二見辺りの収容所に運ばれたそうです。毎年いろんな話しが出てきます。これからもできる限り親父の話を聞いて、自分の子供に伝えられるようにしていきたいと思っています。
Posted by Y.I at 2011年07月01日 14:43
エース様、
「父に捧げるバラード」ですか、いいタイトルですね。バカにしたことはありませんよ。オフレコ?いいじゃないっすか、教えてくれたも。

Y.I様、
今回たくさんの反響をいただいていおります。結局、沖縄線の体験も、父親との関係も、僕だけではないんだなぁと感じています。自分が実体験したわけではないけれども、実体験した人から直接話を聞くことができた世代として、きちんと次世代に伝えていきたいものです。
Posted by 松本 at 2011年07月02日 16:18
コラム読んで、仕事中ですが涙がでそうになりました。

私の父も戦争の中 幼い弟を肩車し海を歩き
ながら逃げた事や父親は爆弾の破片が首に刺さり亡くなった事
最近話してくれました。

この年になり私達家族を思う心にはその時の事が反映されてるんだな~
と最近分かるようになりました。

自分に厳しく・子にも厳しかった父ではありますが
今なお常に学ぶ姿を見せてくれます。
自営業 83歳今も現役で仕事してますよ。

父から聞いた沖縄戦を書き留めこれからの
子や孫達にバトンを繋いでいこうと思います。
Posted by 金hiro at 2011年07月09日 12:14
金hiro様、

そちらのお父様も御苦労なさったのですね。83歳、現在も現役中。お互いに親孝行していきましょう。
Posted by 松本 at 2011年07月14日 18:10
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