今、東京の研修所にいる。
ここで寝泊りしながら約1ヶ月の研修に参加している。
ここでの生活は何一つ不自由はない。
テレビ・トイレ・バス付き冷暖房完備の立派なシングルルーム。
週に一度のシーツ交換、お掃除も来てくれる。
食事も贅沢言わなけりゃ毎日あるし、パソコンもインターネットもプリンターも自由に使える。
洗濯機も乾燥機も無料で24時間使える。
研修内容もしっかりとお膳立てされているし、スタッフもいつも笑顔でサポートしてくれる。
同じ研修生たちもみんな愉快でいい奴ばかりで楽しく充実した毎日を過ごしている。
本当に何一つ不自由はない。
それでも、2週間を過ぎたあたりから無性に家に帰りたくなる。
家族が恋しくなる。
自宅のベッドで眠たくなる。
職場の仲間や友人たちに会いたくなる。
この帰りたくなる理由について、一人、夜中に考えている。
前にも書いたが、ここでの生活には何不自由を感じているわけではない。
週末は自由だし、東京の友人に会ったり、ちょっと遠出をしたりと、秋の東京ライフも楽しんでいる。
しかし、それでも、自宅が恋しいのはなぜなのだろう。
「そんなこと当たり前だろ、ここはお前のお家じゃないんだから・・・」
そうなんだよな、帰りたいのは普通で、当たり前で、当然のことなのだ、僕にとっても、いや、誰にとっても。
「お家に帰りたい」これは、施設や病院で暮らす人たちがよく口にする言葉だ。
僕らのような介護の仕事をしている人にとって、よく耳にする言葉だ。
でも、僕は本当にその言葉を「思い」として聞いてきただろうか。
その言葉を「願い」として「祈り」として、そして、時には「叫び」として受け止めてきただろうか。
研修所の部屋で、真っ暗で静かな部屋で、僕はもう一度、自分に問い直している。
このままで二度と帰れない自分の生活を想像してみる。
自分ならゾッとする。
誰がどれほど優しく明るく完璧に接してくれたとしても、僕の「帰りたい」という思いは変わらないだろう。
自宅に帰ること以外の一切全ての要求を施設側が受け入れたとしても、僕の心は満たされないだろう。
もちろん、中には自宅での生活よりも施設生活を選ぶ人もいる。
望みながらも、残念ながらどうしても家に帰れない事情の人もいる。
悲しいことだけど自宅自体が既にない人もいる。
でもね。
それでもね。
僕らはどれほど謙虚に彼らに接してきただろう。
「仕方がないね」
「だって、どうしようもないじゃん」
「面倒みてあげる」
「預かってあげている」
介護の仕事って、誇りのある仕事だけど、同時にとても悲しい仕事なんだと思う。
うまく伝えられないけど、この悲しみがわからなければ、本当のケアに近づけないような気がする。
この寂しさがわからないと謙虚にこの仕事に向かえない。
「帰す」ことができなくても、「帰れない」ことの途方もない孤独感に、心が共振できる自分でありたい。
「家に帰りたい」
「お家で暮らしたい」
そんな言葉の意味を、もう一度、一人考えている。
真夜中の真っ暗な部屋で、一人考えている。
この気持ちを考えるために、僕はここに導かれたのかもしれないと・・・。